序章〜地方出身の田舎者が開発コンサルタントになるまで

人生は旅である。人はこの世に生を受けてから、人生という果てしない旅に出ている旅人である。

こんなことを言うと、さぞ立派な旅をしていると勘違いさせてしまうかもしれないが、それほどすごいことをやってきたわけではない。

 でも、恐らく、世間一般よりは、ちょっぴり多くの旅(経験)をしてきたのは、間違いないと思う。ということで、現在進行形である一旅人がこれまでの旅の軌跡を少しだけご披露したいと思う。

では、まずは、自己紹介から。

 日本の地方にある超ど田舎(注:47都道府県の中で人口が最も少ないところ)で生まれ、学生時代のほとんどをその生まれ故郷で過ごした。小中高大と地元で過ごし、ずっと実家以外で生活をしたことがなかったが、大学院時代に一人暮らしもしたことがなかった世間知らずの青年が、何を思ったかカナダに交換留学生として派遣されたのである。そして、そこから、人生が一変することとなった。

 生まれ育った田舎以外で生活したこともなかった英語もろくに話せない超田舎者がいきなり飛行機に乗って海外に出てしまったのである。ついでに言うと、新幹線にも乗ったことがない田舎者が飛行機に乗って海外に出てしまったのである。その当時は、文系学生(外国語学部とか文学部とか)の学生が留学することはあっても、理系学生が留学するのは余り多くなかったように思う。留学を志願した理由ははっきりとは覚えていないが、「将来は海外を股にかけるような仕事がしたい」とか割と中身のない理由だったように思う。(注:今は実際に海外を股にかけて仕事をしているが、その当時は今のような生活を描いていたわけではない。現実の人生はフィクション小説よりよっぽど波瀾万丈だ!

留学していた大学(2018年再訪時に撮影)
世界各国から来た留学生の集合写真(筆者は前から3列目左から4番目)

 田舎者を自負する私が、初めて親元から離れて生活するところが自然が豊富なカナダであったのはラッキーだった。それに、交換留学生として派遣されたところは、生まれ育った地元よりもさらに田舎だったから。大学が位置するウォータールー市はカナダ随一の大都市トロントから西へおよそ100kmほどいったところにあり、

その当時、確か人口は8万人程度。また、その人口の半分が大学関係者という小さな町だった(注:とはいえ、大学自体はカナダのみならず世界的にも有名な大学で、マイクロソフト社に採用される人数が世界一とか、少し前に一斉を風靡した携帯端末ブラックベリーの開発者の母校だとか、カナダの大学ランキングでは常連のトップ校とか、そんな有名な大学)。まぁ、そんな小さな町だったから、言語以外のカルチャーショックはほとんどなかったし、交換留学生として日本に来ていてすでにカナダに戻った友人もたくさんいたし、大学の2つ上の先輩が博士課程で留学していたこともあって、8ヶ月の留学生活は想像以上に楽しく過ごすことができた。

 留学中には、大学の友人らと総勢8人が2台の車に分かれて、一路ロサンゼルスを目指してアメリカ大陸を横断したり、その横断旅行の復路では凍結したフリーウェイで事故って車が横転し大破したが怪我一つせず生還できたり(車を廃棄することとなり、途中から長距離バス・グレイハウンドで戻るというオチつき)、日本の地元では出来ない経験をたくさんした。そんな人生観が変わるような経験を8ヶ月間し、日本に帰国。それからは、現実に引き戻されての就活。その年の就活は、その1年前にバブルが弾けてしまっていたこともあって、金融とかメーカーとかバブル期に大量採用したような業界は狭き門だったが、土木系の企業(例えば、ゼネコンとか建設コンサルタント)はまだまだ大量採用していた時期であり、私の専攻は純粋土木(ハード)ではなく「ソフト土木」(いわゆる計画系)ということで、建設コンサルタントという業界に絞り、就活をすることとなった。バブルが弾けていたにも関わらず、就活はとんとん拍子に進んで、5月から始めた就活は、最初に希望した会社から内定をもらった9月で終了した。

 就職することとなったコンサルタント会社は(コンサルタントは長いので、以降はコンサルと呼びます)、発展途上国に対する開発援助プロジェクト(いわゆる、ODA)を手がける最大手の会社だった。しかしながら、どう言うわけか私が最初に配属された部署は国内業務を手がける部署であったのだ。海外で活躍するコンサルになりたかったのに、最初の数年間は国内のプロジェクトで、細かい計算(いわゆる設計業務)ばかりやらされて、「このままの状態だったら、もう限界かなぁ〜」なんてブルーな毎日を送っていた。(注:今なら絶対ありえないような超ブラックで、いわゆるパワハラなんて日常茶飯事だった。当時は、「ブラック企業」とか「パワハラ」なんてワードは存在していなかったですが。)

 国内業務で気分的にブルーになって限界を感じていたある時、「君、確か海外の仕事をやりたかったよね?海外部門に来ない?」って年末年始休暇明けに声を掛けて下さった方がいて、そこから2ヶ月程の間に、とんとん拍子で海外部門に異動することができた(いや、実のところはとんとん拍子ではなかったかもしれないけど、そう思うことにしていた)。

 そんなこんなで、入社から3年弱かかったが、ようやく自分がやりたかった仕事ができる環境に身を置くことが出来た。海外部門への異動に声をかけてくれた方には本当に感謝しかなかった。

 そして、それからは海外でのODA事業に関われる、いわゆる「開発コンサルタント」になり、今に至ることになったというわけだ。

 人口最小県で生まれ育った田舎者が、カナダでの留学経験を踏まえ、海外で活躍するコンサル会社に就職し、(不本意ながら)国内業務に従事し、そして、ようやく念願の開発コンサルタントとしてスタート地点に立つまでには、こんな紆余曲折があったわけです。そして、それから約四半世紀経った今も、開発援助業界に身を置き、日々精進の毎日を送っている。

 海外業務未経験者がどうやって成長(?)したか、その後の第二の留学、キャリアチェンジ、退職、中南米放浪、再就職…と話は続いて行くわけですが、今回はとりあえずここまで。

執筆:上住 和男

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